■去り行く国に悲しみを残して■

エルサレムの聖墳墓教会内部にあるキリストの墓


いつも悲しい旅立ち

まだ発車していない飛行機の座席で、かなたを眺めながら私はぼんやりしていた。もう日も暮れきって、夕焼けの名残のにごった赤が、黒い空の底にたまっている。私は本当に行ってしまうのだろうか。旅立ちは、出発はいつも、どうしてこう悲しいのだろう。どうしていつもこう、感傷的になってしまうのだろう。

「お客様、シートベルトは閉めましたか?」
スチュワーデスに声をかけられてはっと我にかえった。ベルトをたぐり寄せ、バックルが締まるカチッという音を聞くと、もうこれでイスラエルも終わり、私はキプロスに向けて旅立つのだという実感が急に押し寄せてきた。たちまち目に涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちた。
「私はまた、取り返しのつかないことをしてしまった。また二度と会えないような人との別れを繰り返してしまった」
こういう思いが今更のようにやって来て私をさいなんだ。涙をスチュワーデスに見られないよう、顔をさらに窓の方に向けながらも、私はそれを流れるままにしていた。

ヨルダンでの出会い

出発時にこれほど悲しかったといえど、イスラエルという国がそんなに好きだったわけではない。それどころかどうも私には合わないよそよそしさを、その街並みに感じていたぐらいなのだ。あれほど古い歴史がある国なのに、全体として建物が新しく白っぽく、いやにきれいで無機質な感じがするのが好けなかった。各国からのユダヤ人移民が多い国だから仕方ないのかもしれないけれど、古さだけでなく、街と人との調和もあまり感じられず、聖地の重々しさも期待通りとはいかなかった。富が、力が偏っていること、この国の抱える宗教・民族の問題も、無意識に私に負のイメージを植えつけていたように思う。

直接的には入国がとても大変だったこと、そしてエルサレムの宿のおばちゃんが異常に口うるさい人であったことが影響して、最初居心地がかなり悪かった。そのため入国した最初の2、3日は毎日泣いていたものだ。ただしそれは居心地のせいだけではなく、前にいた国・ヨルダンをしのんだためだった。

ヨルダンで私は、1人のパレスチナ人青年に出会った。日本人旅行者の間では有名な人で、アンマンのCホテルで働くSさんといえば、中東を旅するバックパッカーはほとんど知っているだろう。Sさんは私より1つ年下、大の日本人好きで、よく自分で買ったコーヒーを淹れてくれたりし、日本人宿泊者が多い日は喜びのあまり手料理を振舞うほどだった。私も前々から「非常にいい人」といううわさを聞いていたので、実際に会えた時は「有名人に会った」という感じで嬉しかった。つまりただその程度だったのだ。

Sさんはアラブ人男性には珍しく非常に細やかでよく気がつき、腰が低くて、常に命令を待つ従順な召使のようだった。日本語はほとんど話せないのだが「どういたしまして」は気に入りの言葉だそうで、こちらがお礼を言わなくても「どういたしまして」。最初はちょっと調子が狂ったほどだ。
Cホテルで低い(らしい)給料のもと長年働き、ほとんど全く休みもなく毎日24時間詰めていて、彼の楽しみといえば日本人の顔を見ていることと、夜ウノ(カードゲーム)をすることだった。

Sさんと私は、最初はそれほど親しかったわけではない。いや、別に最後まで本当に親しくなったわけではないかもしれない。とくに私は夜はパソコン作業がしたかったので、ウノは他の旅行者にまかせていつも部屋にこもっていた。でもせっかくだからアンマン滞在最後の夜だけウノで遊ぶと、Sさんのはしゃぎようはかなりのものだった(いつもそうなようだが)。その夜、寝る前に私の部屋をノックしたところから、Sさんとの本当の付き合いが始まったように思える。

誰かと思いドアを開けると、Sさんが手に箱を持って立っていた。明らかに彼が自分で包装をしたいびつな包み紙を開けると、箱のなかには銀色の時計が入っていた。「これ、キミのためにおととい買ったんだけど・・・どうぞ。これで僕のこと思い出してね」
びっくりして返そうとしたけれど、すったもんだの末に結局受け取ってしまった。そしてしばらく話しているうちに「もう一日泊まってよ」と頼まれるがまま、滞在を1日延ばすことに決めた。もう他の旅行者には別れを告げてあったから、かなり気まずいことではあったけれど。

時計と一緒に「250ドル」と書かれたプラスチックのタグも入っていた。まさか250ドルはしないと思うけど(笑)

翌日Sさんに昼食に誘われ、レストランでおいしいマグルーバ(炊き込みご飯)やモロヘイヤスープを楽しんだ。食後、「今日は私が払うからね」と何度も念を押しておいたにもかかわらず、Sさんは「手を洗ってくる」と言いながらレジに行き支払いを済ませてしまった。2人で500円程度といえば私にとっては大したこと無いけれど、彼にとってはかなりの額に違いない。時計のことといい、こんなことをしていて大丈夫なのだろうか?

Sさんの名誉のため付け加えておけば、彼はこれらを決して他意があってしたわけではない。他の旅行者にもしょっちゅうおごっているらしいから、私だけが特別なわけではない。だからなおさら心配になってしまう。自分のためでなく、ゆきずりの旅人のためにお金を使ってしまっては何にもならないではないか?

「日本は好き?いつか行きたいと思う?」私が聞くと、
「うん・・・でもそれは難しいよ」と彼は言った。金銭的に無理なのか、それともビザ取得が難しいのか分からなかったが、これほどまでに日本人が好きで一生懸命働いているSさんが、日本に一生行くこともできないかもしれないことを考えると胸が痛んだ。

私がイスラエルに旅立ったのは、時計をもらった2日後だった。前の日国境が閉じていて仕方なく引き返してきた人がいたので、私も通れるか全然分からない状態だった。日本人が去る時に常に悲しそうだというSさんも、私が戻る可能性があったためか、別れはかなりあっさりしていた。お礼のTシャツを買い、なかなか受け取ってもらえないのでムリヤリ置いて、そうして私たちは簡単に挨拶しただけで、永久の別れをしてきてしまったのだ。

案ずるより生むが安し、イスラエルの国境はちゃんと開いており、なぜ前日通れなかった人がいるのか不可解なほど賑わっていた。長い待ち時間や尋問に耐えやっとのことでイスラエルに入り、エルサレム行きのバスに乗った時、ああイスラエルに入れてしまった、もうヨルダンには帰らないのだ、Sさんに2度と会うことはないのだという後悔がはじめて胸を貫いた。私は取り返しがつかないことをしてしまった・・・。居心地よかったCホテル、他の旅人とも仲良くなったアンマン、フレンドリーなアラブ人たち、雑然とした楽しい街・・こうしたものを、もう二度と見ることはないかもしれない。

わけても思い出されるのはSさんのことだった。少数派のヨルダン人のもと、パレスチナ人は悪待遇でこき使われていること、Sさんの夢は自分の宿を持つことだというのは、Cホテルにあったノートに日本人の誰かが書いていたことだ。でもSさんの収入では一生その夢は適わないどころか、これから先も仕事や生活が楽になる見込みさえない。そのことを考えるにつけ、私はかなり思いつめてしまった。なんとかSさんを救うことができないだろうか。なんとか今の立場から彼を解放し、妥当な収入を得て夢を叶えさせることはできないのだろうか。これまで彼に世話になった日本人は、誰もどうにもできなかったのだろうか。私が帰国して稼いで、新ホテルを作れるというお金を貯めるには、一体何年かかるだろうか。そうだ、偽装結婚という手はどうか。そうすればSさんは日本に来て働くことだってできるし、いつか自分のホテルも持てるかもしれない・・・。

当人からしてみれば寝耳に水、もしかしたら大迷惑とも失礼にもあたるようなこんなことを、私はしつこく1人考え続けていた。物をもらったからというわけではない。私はとにかく悲しかったのだ。なんだってあの人は日本人なんかが好きなのか。それが彼の悲劇のすべてのような気がした。あんなにも日本人が好きでなく、人に尽くしたりもしなかったら、私も他人事として放っておけただろうに・・。彼のような人が存在すること、そのこと自体があまりにも悲しかった。

それでも私がしたことは、ただSさんに「何かして欲しいことがあったら力になる」という意味の手紙を書き、余ったヨルダンの通貨を同封して、アンマンに戻る旅行者に託すことだけだった。Sさんが今後どういう暮らしを送るのか、少しでもよい方に変わっていって欲しいと、遠くからただ祈ることしかできない。

ヨルダンの人はフレンドリーで、北部はとくにいい感じだった

二度と会えない人たち

イスラエルはエルサレムの宿で、とある韓国人の若者が言った。
「僕は最近ホームシックなんだ。何せ最近お金を盗まれたこともあって・・。君はそんなに長いこと旅していて、ホームシックにはならないの?友達や家族が恋しくならないの?」
「うーん、私は別に大丈夫だよ。だって日本に帰れば、家族や友達には会えるって分かってるもん。私が本当に恋しいのはこれまで旅先で知りあって、今後一生会えないであろう人たちのこと。行き来ができないほど遠くに住んでいたり、連絡が途絶えたり連絡先を聞かなかったりして、どこにいるかも分からなくなっちゃった人たち。もう二度と会えないと思うほど、悲しいことはないよ」

こう自分で言いながら、その意味するところの深刻なことに初めて気付いたのだった。思えば私はこれまで、なんて多くの人を、忘れがたい人々を失ってきたことだろう。最近のSさんしかり、少し思い出すだけでもユンジュ、カリネ、ジェシー、ヴァッジ、カルメン、デギ、ナイラ、フリオ、ベン、セウォン、ハリダ、マリ・ヘレン、そして連絡が途絶えた日本人の名も浮かんでくる。旅していること、絶えず出会いと別れを繰り返していくこと・・・私はそれを意に介さず、むしろ喜んで旅していたというのに、今はそのことがまるで呪いのように感じられてくるのだった。

―もう二度と会えない人がいる、これほど悲しいことがあるだろうか―
その後のイスラエル滞在中、私はずっとこのことを考え続けていた。そしてどんなにたくさんそういう人々に出会ってきたかということに、今更のように気付いたのだった。

イスラエルの首都エルサレムでも、いろいろな人としゃべって何人かと仲良くなった。この偉大な聖地には、あらゆる国籍の人々がそれぞれの思いを抱いて集まって来ていた。出稼ぎインド人女性マリアンは、しょっちゅう私を誰かとくっつけようとするのが癖で、正直迷惑だけどその無駄な努力がどこか憎めなかった。キリストのようなひげを生やしたユダヤ系メキシコ人のハーメス、休暇中のプエルトリコ人ホセ、出稼ぎのスリランカ人などと、宿の顔ぶれはさまざまだった。パレスチナを支援して活動する日本人にも、話を聞く機会があった。日本にいたら遠い世界の出来事として真剣に考えたことがなかったパレスチナ問題も、彼の話を聞くとより具体的なイメージが描けるように思えた。

キリストゆかりの地であるオリーブ山には、数々の教会が建つ

韓国人のリーさんと仲良くなったのは、イスラエルに滞在して3日ほどたった頃だったろうか。50歳の小柄なおじさんで、エルサレムのこのホステルに住んで1年経つらしいが、韓国語以外の言語は全くといっていいほどしゃべらない。それなのに韓国語を知らない人に向かってもどんどん話しかけるのが面白い人だった。一生懸命ジェスチャーを交えるのだが、その意味をいろいろ考えてもさっぱり分からないので私は笑いが止まらなかったものだ。

リーさんが毎日何をしているかといえば、オリーブの木を切ってきて十字架の置物をこしらえ、それを無料で人々に配っているのである。キリストひげのハーメスはリーさんを「カリスマ的」と表したものだったが、まさに語り草か伝説にでもなりそうな、不思議に「導かれた」生活を送っていた。

リーさんは気さくな人で、韓国人旅行者によく食事を振舞っており、私もその輪に段々加わるようになった。煮立てたナベにジャガイモとひき肉、そして辛いタレ(コチュジャン?)を入れて、最後に小麦粉と卵と水を練った生地をちぎり入れる。そうして出来上がったのはスジェビという韓国のスープだった。久しぶりの辛い料理、おまけに白いもちっとしたご飯までついたので、そのおいしさはひとしおだった。その人の国の料理を一緒に作り、しかもみなでわいわいしゃべりながら食べるのは本当に楽しいものだ。私はこういうのに非常に弱い。

おいしいスジェビ

こんな風に何度かご馳走になりながら、ある時リーさんは身の上話を始めた。そばにいた韓国人の若者が自信のなさそうな英語で訳してくれたところによると、リーさんは朝鮮戦争で両親を失い、顔も思い出すことができないほど小さい頃に孤児になったという。学校で勉強できたのは3年だけ。だからハングルは読めるが、アルファベットや漢字はおぼつかないようだった。結婚はしたことがない。21年の間、リーさんは自分の車に寝泊りして家を持たず、ウシの乳搾りをして働いた。それなのに給料は全然もらえなかったという。その後8年は高層ビルの巨大スクリーンの設置をしたが、高所で非常に危険な仕事だったそうだ。それでも今は「ヂジョス」に招かれてここにいる。

リーさんは敬虔なクリスチャンであり、キリスト(英語でジーザス)を意味する「ヂジョス」という言葉が話のはしばしで聞かれ、そこだけは私にも分かるのだった。彼はお金を稼がなかった。でもこの通り、ヂジョスがくれたからお金も持っている、と私に手帳にはさんだお金を見せてくれたりした。もちろんエルサレムにいるのも、ヂジョスが彼を招いたからだ。イスラエルには、ヂジョスが彼にいて欲しいと思う期間だけいる予定だ。だからあと何年かはリーさん自身にも分からない。

リーさんの親切は宗教的なものであって、個人的な好意の表れではないだろうと思っていたけれど、それでも少しづつ仲良くなっていった気がする。リーさんが私をクリスチャンにしたがったからかもしれない。または言葉が通じないということが、それを越えた好意を起こさせるのに役立ったのかもしれない。キリストについて熱心に話す言葉がもし通じていたら、私はきっと煙たく思ったに違いないから。

ここで信仰について述べておけば、私はキリスト教徒になるつもりはさらさらなかったし、今でもあるとは言えない。かつてイギリスにいた頃、軽い気持ちで何度か教会に行ったことがあったが、そこで聖書に「キリスト教徒でない者は地獄に落ちる」と書かれているのを読み、以降受け入れる気になれないのである。細部をあげつらったまことに子どもっぽい反応かもしれないと思うのだが、どうしようもない。やはりそこは日本人、遠い砂漠で生まれた厳格な宗教によって、価値観の全てを替えることにも抵抗がある。

私が思うのは、宗教とは育ってきた環境にも大きく影響される、つまり「半ば刷り込まれる」ものであって、子どもの頃から頻繁に接しているからこそ聖性を感じやすいものだということ。親が信仰する宗教を何の疑問もなく自分のものとする人がほとんどのなか、大人になってから選びなおす人は少数だろう。私が多少キリスト教の教会に感情を動かされても、イスラム教のモスクでもそうあるのは難しいのは、これまでになじんできた程度が違うからだろう。なじみのない宗教を信仰するのは現実的でないと感じるほど、普通宗教は骨身にしみわたっているものだ。

それでも宗教とは信仰のみならず、生活習慣の多岐に及ぶもので、この意味で私は自分を「無宗教」と呼ぶことはできない。本当に無宗教ならば、田舎の仏壇にも神棚にも手を合わせることはないだろうし、葬式は無宗教の方式でやるべきだろう。仏滅も大安もどうでもよいことになる。江戸時代に定められたのだったか、「家の宗教」という概念は、薄れつつもまだ私と無関係にはなりきっていない。まあでも万が一将来結婚するとしても、式を寺ではやらないだろうけど。

珍しく難しいことを書いて、何がなんだか分からなくなってきたけれど、とにかくリーさんと食事する楽しい日々も終わりに近づいた。私は港町ハイファに旅立ち、もしキプロス行きのフェリーが見つかればすぐ乗るし、もしなければエルサレムに戻る、と言ってリーさんに別れを告げた。出発前夜、リーさんは普段9時ごろ寝るところを私に付き合って遅くまで起きており、韓国語の単語を教えてくれた。共通語がないので、目につくものを指差しながらということしかできず、「今日」とか「もっと」といった抽象的な言葉はちっとも分からなかったけれど。

そしてキラキラ光るビーズがついたロザリオも買ってくれた。それにはなんとかキリスト教徒になって欲しいという願いが込められている気がして、私にはちょっと重い贈り物だったけれど、ありがたく受け取ることにした。リーさんの素朴な生き方と、1人の風変わりな韓国人を思い出すよすがとして。

リーさんが作ったオリーブの木の十字架

本当の別れ

エルサレムを発って4日後、私は再びこの街に戻ってきた。結局ハイファからキプロス行きのフェリーは高いのでやめて、飛行機のチケットを買ったのだ。そして出発前にもう一度エルサレムの知人に挨拶するために、4日ぶりなのにちょっと懐かしい「知ってる街」エルサレムに戻ってきたのだ。

私がもうキプロスに行ったと思っていたリーさんは、再会をとても喜んでくれた。「メール、メール」と言うので何かと思ったが、4日ぶりに自分のホットメールをチェックするとなんとリーさんからメールが来ていた。それまで持たなかったアドレスを作り、しかも韓国人旅行者の誰かに頼んで英文で書かせたらしい。リーさんには再会した時も何かしら買ってくれたが、もらったうちで一番嬉しかったのがこのEメールだった。よく分からないパソコンを使ってアドレスから作るなんて、彼の年代の人にはよほど抵抗あることだと思う。お金を出して買える物よりも、ずっとずっと貴重な贈り物だった。

エルサレムにはたった1泊しただけで、今度こそ本当の別れがやって来た。リーさんは私をテルアビブの空港まで送っていくと言い張ったけれど、なんとかそれは断った。道路わきに立って待ちながら話をしていると、空港行きの迎えの車(シェルート)が思ったより早くやって来た。慌てて飛び乗ったので、別れを惜しむ時間もなく車は走り出し、私はあせって窓から手を振った。限りない「ありがとう」の気持ちを込めて。

ついにリーさんの姿が見えなくなると、私はぐったりとして座席にもたれた。半ば呆然としながら、もうエルサレムと、リーさんと完全に別れてきてしまった事実を認識しようとしていた。前回の別れの時、リーさんが私に言ってくれた言葉を覚えておいたが、今さっき急いでいて言えなかったその韓国語を、私はひとり口のなかでつぶやいてみた。

「ネガ・マニ・ポゴシパ・ハエコヤ」
(I will miss you a lot)

―私はキリスト教徒にはならないだろう。なることはできないし、なる方法も分からない。でもリーさんに対する暖かい気持ちを、「ヂジョス」のために少し振り分けることならできそうな気がした。そうすることがきっと、リーさんの親切への恩返しになるに違いない。もらったロザリオを見つめながら、私は今自分が生涯で一番、キリスト教徒に近づいた瞬間であることを意識していた。

(旅行時期 2005年7月)

 

リーさんと、ロザリオを着けた私