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| マヤのチャック・モール。いけにえの心臓をえぐり出してここに供えた。国立人類学博物館蔵 |
■今さらアステカの本を読む■
グアテマラのスペイン語学校から、借りてきた日本語の本をいくつか読んでいる。そのうち2冊は、コルテスのアステカ王国侵略に関するものだ。 かつてのメキシコがどういう風にスペインと出会い、支配されていったのか。かの地を旅していたときはほとんど知識がなかったのだが、今詳しいことを知ってみると、それがとても興味深い。 たとえば先住民の独特な発達を遂げた文化、奇妙に一致する伝説によりコルテスを白い神と信じたアステカ人。スペイン人たちの新世界を見つけたいという情熱と、一旗あげたいという欲望、その冒険談、そして2つの異なる文化が出会ったことによる、取り返しのつかない悲劇・・・。 ■突然だけど、アステカクイズ■ ・・・といっても、実際にメキシコに行く予定があるとか、特別に興味がある人はともかく、普段アステカ王国と全く関係ない生活をされている人(みんなそうか)には、こういう事柄にはなかなか興味が湧かないと思う。 クイズ1●アステカ王国では、人間のいけにえはどのくらいの頻度で捧げられていたか? クイズ2●アステカ王国を征服した、コルテスの弱点とは? クイズ3●スペイン人と戦った先住民は、彼らの何にびっくりした? さあ、これで少しは興味を持ってもらえただろうか???答えは読み進んでいただけると分かるようになっている。 ■アステカ族、テノチティトランを建設■ メキシコの中央高原からグアテマラにかけて、紀元前から多くの部族が興亡を繰り返してきた。メキシコ湾沿岸地方に栄えたオルメカ族や、モンテ・アルバン文化の担い手であるサポテカ族、ユカタン半島周辺に栄えたマヤ族、テオティワカン遺跡を作ったテオティワカン族などである。これらの文化が栄えた定着農耕地帯の北には、不毛の大地が広がり狩猟遊牧民族が闊歩していた。 アステカ族も北方から出た狩猟遊牧民族のひとつで、はじめトルテカ人の傭兵として働いていた。13世紀の終わりにトルテカ王国が滅ぶと、アステカ人はメキシコ中央高原に流れ込んだ。軍神ウィツィロポチトリはのお告げによれば、サボテンの上にとまったワシが蛇を食べている場所こそ、アステカ族の繁栄を約束する土地だという。そして彼らはそのワシを、テスココ湖上の島にて見出だした。彼らはその島ににテノチティトランという名前をつけた。「サボテンの上」という意味だ。これが現在のメキシコ・シティーである。
当時テノチティトランで勢力があったのはトラテロルコだったが、アステカ族はまずその傭兵として働き、ついにトラテロルコを武力で圧して支配下に置いた。ここにアステカの繁栄が始まり、しまいに371の従属都市から税を取り立てるほどに強大になっていった。 彼らは自分たちのことをメヒコ人と呼んだ。守り神ウィツィロポチトリの別の名をメヒトリといったからである。これが言うまでもなく、現在のメキシコの国名となっているのである。 ■アステカ族・恐怖の宗教■ アステカ人の信仰は独自の宗教観に基づいた、非常に血なまぐさいものだった。 彼らにとっての最高神は、太陽神であり軍神でもあるウィツィロポチトリである。太陽は宇宙の暗黒を照らし、彼らの生命を守るものであった。同時にもし太陽が上らなければ、悪と暗黒の世界が訪れ、人々は死に至るだろう。太陽に栄養をつけ、今日もまた天空に昇ってもらうには、人間の体から流れる出る血と、生身から取り出された心臓が必要だ。アステカ人はこう考えた。 そこで彼らはピラミッドの上で上で毎日毎日、多くの生きた人間の心臓をくりぬいて捧げていたのだった。
世界の安全と平和を守るために多くの殺人を遂げるという、矛盾した行為が長い間続けられてきたのである。これはなにもアステカ族だけが特別なわけではない。メキシコのほかの部族も、多かれ少なかれ同じような宗教観を持ち、いけにえを捧げていた。 ここに別の神がいる。文化と教養の神ケツァルコアトル(羽毛ある蛇、の意味)である。この神は白い皮膚と黒いひげを持ち、そしてなんといけにえに反対する神だった。当然いけにえがないと生きられない太陽神が、黙ってはいない。ウィツィロポチトリは闇の神テスカトリポカに変身してケツァルコアトルに対抗し、人々を説いて彼を追放させたという。アステカの土地を追われたケツァルコアトルは、タバスコ付近で魔法のいかだに乗り、東に向けて漕ぎ出した。こんな不気味な予言を後に残して。 「私は一の葦の年に戻ってきて、政治を再びこの手ににぎる。そのとき人民は、大いなる災厄に苦しむこととなろう」
■世界の果ては、世界の反対側?■ まだ地球の全貌が今のように知られていなかった頃、世界の果てについて考えることは恐怖を感じさせるとともに、大いに探求欲を刺激することだったに違いない。15世紀のヨーロッパには、東のほう、つまりアラビアの向こうに広がるアジアの知識はおぼろげながらあった。しかし西、太陽が沈んでいく方向に何があるかは、まだ誰も知るものはいなかったのである。 そんな世界の果ては丸くなっているという説をとったのが、クリストファー・コロンブスだ。世界が球体ならば、西を目指せばいつかはアジアに到達できるだろう。そして彼は1492年、スペインのイサベル女王の援助を得て、ヨーロッパから西回りでアジアを目指した。目的はマルコ・ポーロによっておぼろげに情報が伝えられていた、黄金の国ジパンゴを発見することだ。 苦難の航海を続けること2ヶ月強、危機を何度か乗り越えて、ついに陸地を発見した。コロンブスは4回に渡る航海を続け、カリブ海から南米大陸北岸に至ったが、ついに死ぬまでそれらをアジアであると思い込んだままだった。 その誤りは1503年、コロンブスの死の3年前、アメリゴ・ヴェスプッチが提出した小冊子によって訂正された。コロンブスが見出したものは、アジアではなくてまさしくひとつの新世界であることを断言したのである。それがコロンブスの死後、世間に広く認められるようになっていった。 コロンブスの「発見」以来、スペイン人を始めとするたくさんのヨーロッパ人がこの新大陸に押しかけた。自国ではどうにもならないごろつきも多かったという彼らの目的は、一様に金その他の宝と、未知への冒険であった。 こうして今のハイチやキューバに、次々とスペイン人の拠点が作られた。キューバでは慣れない労働のため先住民がばたばたと死んだので、不足した奴隷労働力の確保を目的に、さらにメキシコ西部海岸の探検が進んだ。 2回に及ぶ航海の結果、大陸には衣服を身につけ石造りの建物を作る、驚くべき高い文化を持つ人々が住むことが分かってきたのである。
■エルナン・コルテス登場■ エルナン・コルテスはスペインの貴族で、ベラスケスのもとでキューバの征服に従事した。女性に少々だらしない性格で、トラブルも起こしている。 その後秘書兼財務官の地位を与えられ、富も得て結婚もし、平穏な暮らしを送るかに見えた。しかし32歳の時に第3回探検隊の指揮者となり、キューバを後にすることとなった。 500人以上の兵を従えたコルテスは、まずコスメル島に着いた。ここで以前遭難し、マヤ人に囚われながらも生き延びたスペイン人に出会った。アギラールというその男はマヤの言葉をほぼ完璧に話すことができ、以後通訳として活躍することとなる。
次に立ち寄ったタバスコ地方の住民は敵対的だったので、コルテスは彼らと戦うことを決めた。 恐れ震える20人の娘のなかに、一人だけ平気であたりを見回す女がいた。名前をマリンチェと言い、とびぬけて美人だったという。彼女はメキシコ系の貴族の娘に生まれながらも継母に邪魔者扱いされ、タバスコへ行く奴隷商人に売り飛ばされた。そういう経歴があったので、マヤとメキシコの言葉の両方を話すことができたのである。 アステカ人と話すときは、まずマリンチェがメキシコ語(ナワトル語)をマヤ語に訳し、続いてアギラールが、それをスペイン語に訳すという手続きがとられた。こうして彼らはコルテスにとって、なくてはならぬ人物となったのだ。 とくにマリンチェは、自己の種族と文化の破壊をすすめるコルテスに絶対的に味方した。通訳だけでなく助言者となり相談役となり、進んで力を貸したのだった。いくら考えても非常に理解しがたい、不思議な人物だった。 ■モンテスマ王の使者■ その頃・・・こちらはテノチティトランにて、王モンテスマは苦しみのさなかにいた。ケツァルコアトルが帰ってくるという一の葦の年が近づくと同時に、さまざまな不吉な前兆が現れたからだ。それは柱のような炎が燃える奇怪な現象だったり、人々が夜な夜な聞いた女の泣き声であったり、体がひとつで頭が2つの怪物の形をとって現れたりした。 やはり「白い神」ケツァルコアトルが戻ってくるというしるしなのか。そしてアステカ王国は滅びるのか・・・?モンテスマ王は次々に襲う悪い予感のせいで、すっかり憂悶のとりこになっていた。 そこへついにその知らせがやってきた。海岸地方からある平民が王をたずね、海の中に何か小山のようなものが出現したと告げたのである。そこで王の従者が海岸に派遣され、確かにその船には、白い人々が乗っていたと告げたのだ。 モンテスマが送ったアステカ人使者は、サン・ホアン・デ・ウルア島でコルテスに会見した。彼らが贈り物として差し出したのは、金銀の素晴らしい工芸品だった。この大陸の奥深くひそむ王国が、どんなに強大なものであるかを思わせると同時に、スペイン人の貪欲をひどく刺激した。アステカ側では、いけにえ用の捕虜もコルテスに用意していたが、コルテスはそれを断固として断った。 「いけにえに反対するのは、やはりケツァルコアトルだからだろう」使者の知らせを聞いて、モンテスマ王の心はさらに暗くなった。 一刻も早くモンテスマ王に会いたいというコルテスの懇願は拒否されたが、コルテスも部下のスペイン人たちもそれではとてもおさまらない。贈り物だけでこんなにもすごいならば、首都には一体どれだけの黄金があるだろう。早く手に入れたいものだ。 そのうちチャンスが訪れた。アステカ人の支配を憎むトトナコ人が、コルテスに助けを求めてきたのだ。コルテスはこの機に乗じてテノチティトランに進むことを決め、まずは海岸に植民都市を作った。その名はベラクルスと呼ばれ、北アメリカ大陸初のヨーロッパ植民都市として、大きな意味を持った。街ができると、コルテスはまずトトナコ人の町センポアラに向かい、続けて300の兵を引き連れて、テノチティトランに向かった。 ■テノチティトラン侵略と支配■ スペイン軍は西へ、西へと進軍した。途中トラスカラ族と戦い、続いてチョルーラに向かった。 チョルーラは当時一大商業都市として栄えていたが、同時に重要な宗教的中心でもあった。高さ約80メートルのケツァルコアトルのピラミッドがあり、毎年盛大な祭りが行われていた。 祭りの40日前、商人によって男奴隷の中からもっとも美しい者が選ばれる。彼はぜいたくな羽毛の着物や宝石で飾られ、花束を捧げられ、毎日ごちそうを与えられる。彼は40日の間神とみなされ、街を歌い踊りながら練り歩き、人々は彼を拝みに集まってくる。 しかし祭りの日の真夜中に、その「神」は石の上で胸をえぐられ、取り出された心臓はケツァルコアトルの神像の前に捧げられるのだ。 いけにえを嫌う神にさえこのように平然とそれを捧げてしまうのは、混乱し錯綜したアステカ人の宗教のなせる業なのだろうか。 この儀式では、いけにえの奴隷の肉がケツァルコアトルの肉に変わると信じられていたため、商人たちは儀式の後でその肉をむさぼり食ったという。それによって、神と直接に交わりをかわすことができると考えたのだ。非常におぞましくも原始的な感じがする。 そんなチョルーラではスペイン軍との間に不穏な空気が漂い、ある日マリンチェがチョルーラ人反乱の確証をつかんでコルテスに報告した。それがスペイン人とトラスカラ族による、チョルーラ人の大虐殺を引き起こしたのである。 チョルーラから徒歩で8日、スペイン人はとうとうテスココ湖に浮かぶ都、テノチティトランに入った。テスココ湖の上を、30歩分の幅がある堤道がモンテスマ王の首都まで通じている。眼前に繰り広げられる壮大で美しい、まるで信じられぬようなその光景に、スペイン側の記録者たちは盛んに感嘆の声を漏らしている。
モンテスマはとうに、この白い神を無抵抗で受け入れようと心に決めていた。スペイン軍はなんなくテノチティトランに入り、手あついもてなしを受けることになる。モンテスマ王は豪奢な衣装に身をつつみ、威風堂々として、王者の貫禄を存分に備えていたという。しかし心の底では、王は一切の希望と気力を失っていた。 神と戦って、一体どうして勝つことができよう?全ては無駄なのだ。それならば抵抗をしないで彼らを受け入れるなら、被害は最小限にくいとめられるのではないだろうか? そんなある日、海岸の植民都市、ベラクルスに残してきたスペイン人のうち40名が、4千のアステカ軍と戦って完全に敗北したという知らせが届いた。コルテスはすぐに行動を起こし、ベラクルス市攻撃の命令をあなたが出したのだろう、と言ってモンテスマ王を非難した。王は必死に抗弁したが、コルテスはついに王を捕虜にしてしまった。 こうしてクーデターが成功し、アステカ王国の主権は完全にコルテスのものになった。 長くなってきたこともあり、ここで急に筆をはしょることを許してもらいたい。 ■現在のメキシコとメキシコ・シティー■ テノチティトラン侵略の戦闘は、スペイン人たちにとって本当にきわどい時が何度かあった。もしコルテスが先住民たちとの戦いに負けていたら、一体どうなっていたことだろう? それでもやっぱり、ヨーロッパ人は富を求めて次から次へと押し寄せ、いつかはテノチティトランを手に入れたことだろう。結局は、敗戦主義者であるモンテスマ王が考えたように、どんな抵抗も無駄だったのかもしれない。 テノチティトランの街は徹底的に破壊され、その石材を用いて、スペイン風の建築物が建てられた。現在メキシコ・シティーの中央広場ソカロを訪れると、目に入るのは大聖堂や国立宮殿などの西洋建築ばかりだ。メトロポリタン大聖堂の裏にわずかに、テノチティトランの中央神殿跡が見られる。これも長いこと建物の下にあったものが、ビルの工事中に発見され発掘されたものだ。
アメリカ大陸に来て、ここまで徹底して植民者の文化に塗り替えられてしまった地域は、今まで訪れたことがなかったと思った。 まず言語。メキシコではどこへ行ってもスペイン語が通じる。スペイン語が話せない先住民もいるようだが、それにしても東南アジアとかインドとか中央アジアなどに比べて、かつての宗主国の言葉の通用する人の数は桁違いだと思う。 そして宗教。メキシコでは約9割がカトリックを信仰し、どこに行ってもキリスト教の大聖堂や教会がある。カトリックの教会で熱心に祈りを捧げる先住民たちを見ていると、直接かかわりがない日本人の私でも、ちょっと複雑な気分になってしまうのである。 徹底的なスペイン色への塗り替え、そのあまりの変わりように、もともとを知らない私でも何か非常に大事なしんが、この国には欠けている気がしてしまう。 しかし一方、彼らの文化は今でも根強く生き残っているのだと、私が読んでいる本の著者は言う。 それはいったいどこに? 彼らの文化は圧しつけられればられるほど、いつの間にかヨーロッパ的な文化の中に浸透し、その性格を変容させ、全く新しい別の文化を現出させてしまったのだそうだ。宗教を例にあげれば、軍神ウィツィロポチトリはスペインの戦争の守護者聖イヤゴになり、トナンチィン女神は、グアダルーペ寺院の聖処女となったように。 そういうことを知っても、こうした現象にはどこか悲しさが漂っている。 もちろん彼らに、かつてと同じように人間のいけにえを捧げてほしいわけではないけれど。 (旅行時期 2003年10月)
※参考文献の方がよほど面白いので(笑)、興味をもたれた方はぜひお読みください |
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