路傍の糞の河原へ遠足
まだめずらしい存在であったネコを連れてヨーロッパに帰還した十字軍は、伝書鳩をも「おみやげ」として持ち帰った。
音信を鳩に託して、城から城へと運ばせるのは愉快なことであった。
けれども、一八世紀までは、伝書鳩の飼育はまったく気まぐれな、なぐさみごとにすぎなかった。
一九世紀になって、 鳩の飼育は重要な産業に発展した。
一八一四[一八一五の誤り]年にロンドンのネーサン・ロスチャイルドは、伝書鳩を利用してワーテルローの戦いの結果にかんする情報を入手した。
そして、かれは株式取引所で、すばらしい大成功をおさめた。
なぜなら、ナポレオンがこの一戦に敗れたことを、一般大衆よりもまる一日早く知ったからである。
パリの伝書鳩 一八七〇年には、戦時における伝書鳩の価値が立証された。
パリの街はドイツ軍に包囲され、何らの情報も軍の指令も得られなかった。
けれども、鳩は包囲軍の裏をかいて孤立した軍隊と軍司令部とのあいだを飛ぶことができたのである。
一枚の至急便はほんの一グラムの重さで、約七万語が写真で縮小されており、強度の拡大鏡を使って読むことができた。
鳩舎はパリにあったので、鳩を気球に乗せて占領されていない仏の土地に運ぷか、またはドイッの戦線を抜けてこっそり運び出さなければならなかった。
この仕事は、しばしば子供たちによっておこなわれた。
すべての鳩の集合地は、パリから約二〇〇キロメートル離れたツールであった。
そこで、主都向けの至急便は鳩に結びつけて送られた。
パリの包囲は約六カ月のあいだ続いた。
この期間中に、鳩はおよそ一万五〇〇〇通の政府通達と、百万にのぼる航空便をバ聾の市民あてに運んだ。
かれらはツールからパ頸までを、一時間に八〇キロメートルの平均速度で約一五〇分かかって飛んだ。
ニワトリは、紀元前二〇〇〇年代に人から入の手にわたり、極東から西方へとだんだんに連れてガチョウの羽をむしって裸にし、粘土製のつぼに入れてむし焼きにするための準備をしている。
テーベで発見された紀元前二〇〇〇年代のエジプトの絵画よりこられたものと思われる。
ジャワからヒマラヤ山脈までの全域に生息しているバンキヴァ野鶏は、ニワトリの多くの品種の先祖であり、これらのニワトリはバンキヴァ野鶏といろいろな地域のキジ類とのあいだで、たいそう早くから交配してつくりだされたものである。
さて、ニワトリはずばぬけた長所をもっているにもかかわらず、古くは主な家禽とは見なされず、また家畜化された最初の鳥でもなかった。
ペルシアからエジプトにニワトリが持ちこまれたころ、エジプトではすでにガチョウや鳩がたくさん飼われていた。
それでも、エジプト入はすぐにニワトリの長所をみとめて、かれらの絵文字のなかにニワトリの象形文字を取り入れたのである。
「まいにち卵を生む鳥」は、多産の概念を意味し、のちには、母音の"u"を表すことになった。
いっぽう、ガチヨウの表意文字は"son"という言葉で表された。
もっとくわしくいうと、この言葉は両親に対して尊敬と愛情をもうた従順な就畢を意味している。
このことから、エジプト人はガチョウをはっきりと同族意識で見ていたと藩論づけることができる。
エジプト入は、ガチョウを卵よりもむしろ食肉用に飼っていたが、一般に家禽の飼育技術は商度に発遠していた。
卵をかえすのは、めんどりにはまかせないで、一度に数千個の卵を収容できる完備した孵僻器のなかでおこなわれた。
チ笛プを通して、孵化器のすみずみまでくまなく熱が送られた。
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