
西国三十三ヵ所観音霊場結願札所
宗派 天台宗 本尊 十一面観世音菩薩 開基 豊然上人・大口大領
| 西国巡礼慈悲の道(観音さまの慈悲) 山主 久保寺美好 観音霊場の三十三ヵ所は、『法華経』の「観世音菩薩普門品」(観音経)に説かれる観音菩 薩に由来しています。観音菩薩は、世間を智慧の光であまねく照らし見、救いを求める声を 聞いて、人々を苦しみから救うのです。人々の苦悩は千差万別ですから、観音菩薩は、 人々の資質や願いに応じて、比丘、比丘尼(出家者)など三十三の姿をとってあらわれ、す べての人々を救われたのです。三十三ヵ所というのはこの三十三の姿を意味します。観音 菩薩は奈良時代より調伏息災の現世利益の菩薩として信仰されました。その後、浄土教が 発展するにつれ、極楽往生を願う側面が強調され、念仏聖が霊験力を高める為に、諸国の 霊場を巡り歩きました。平安時代には那智山から始まる西国の三十三ヵ所の霊場ができ、 江戸時代には坂東三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所の霊場ができました。現在でも霊場は各地 にできており、観音信仰が盛んです。その場合でもほとんどが三十三ヵ所のようです。 現在では海外からも巡礼に来る人たちがいるくらいです。巡礼は、観音巡拝にしろ、遍路に しろ、いずれも霊場を巡って祈願を込め、亡き人の供養をし、自分自身を鍛え、信仰心を高 める・・・・・という修行体験で、その道のりは厳しく、特に道も定かでない昔では、大変な難 行苦行であったと思います。しかし、見逃すことの出来ない要素は、旅の楽しさ、友をつくる 嬉しさ、土地土地の人情にふれる喜びなどです。昔は今日のように自由に出歩くことは出来 ませんでしたから、巡礼という大義名分をもって遠出が出来ることは、命の洗濯という意味も あったかもしれません。現代の巡礼は旅行会社などが企画するツアーで行く人も多く、旅的 要素が強く見られますが、せっかくの機会にぜひ巡礼本来の目的と、こころを体得するよう にしたいものです。 |
創建は延暦17年(798)とされ、それについて次のような縁起が残されている。昔、奥州会 津黒河郷に熱心な観音信者で大口大領という人がいた。ある日、十一面観音像を造立した いと宿願し、近くにある永井村の文殊堂へ幾日も参詣し祈願をした。するとある夜、夢の中 に観音菩薩が化身した童子が現れ、榎の霊木が植わっている場所を示された。大領は早 速この木を伐って京に運び、名の知れた仏師に頼んで立派な観音像を彫り上げた。像を背 負い喜び勇んで会津黒河郷へ向かったのだが、美濃国谷汲まで来た所、急に観音像が重 くなり一歩も動けなくなった。大領は、観音様は茲に留まりお祀りして欲しいに違いないと思 いこの地で修行をしていた豊然上人の元を訪れ、堂を建てて像を安置した。すると堂近くの 岩穴から油が湧き出し燈明に困ることがなっかたという。この話を聞かれた醍醐天皇は、谷 汲山の山号と華厳寺の扁額を賜ったという。寺名は観音像に華厳経が写経されていたこと にちなむ、とされている。天慶7年(944)に朱雀天皇が勅願寺とされると、寺は大いに隆盛 したが、応仁の乱で諸堂を焼失、本尊のみが残るだけというほど哀微した。文明年間(146 9〜1489)に堂宇が再建され、観音巡りの満願霊場の位置が確立してから、再び勢いを取 り戻したといわれている。 『見所』明治8年に再建された本堂に本尊十一面観音菩薩が安置されているが、秘仏の為 拝観できない。拝観できるのは高さ約2mのお前立ち十一面観世音菩薩脇侍の木造毘沙門 天立像、不動明王像。また本堂床下は戒壇巡りになっており、真っ暗な回廊を一巡すると本 尊と結縁ができ、極楽往生が約束されるという。本堂左手に立つ3間4方で宝形造りの笈摺 堂には、奉納された笈摺が幾千万と積み上げられ、中に花山上皇のものもあると伝えられる その他にも菅笠、杖、満願の大絵馬、千羽鶴などが奉納されている。 「西国三十三ヵ所巡りより抜粋引用」 |
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| 山 門 | 山門より参道を望む | 石段上が本堂 | 鐘 楼 |
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| お問合わせ | 谷汲山 華厳寺 〒501-1311 岐阜県揖斐川町徳積23 |
| 拝 観 | 無 料 午前8時〜午後4時30分 |
| アクセス | 40分、谷汲口駅下車、名阪近鉄バスにて10分 谷汲山下車、徒歩10分 |
21号線を西へ、河間交差点を北へとり417号線へ、 303号線との交差点を越えてすぐの突き当たりを 左折、6km (P)30台 (行事がある場合は)1km手前に(P)450台 |